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 美術に触れるなかで、「生きづらさ」について考えることがあります。

 作品をつくるとき、頭で思考していることと体が反応することが異なったり、素材はまた異なる声を発していたりする経験はあらゆる制作者に共通すると考えられます。

 私は、頭と体、意識と身体、中身と容れ物・・・それらの分裂や乖離に苦しさや生きづらさを感じることが多々ありました。きっかけとしては、私がこれまで対面してきた、いくつかの死や喪失、病気や障害があります。

 記憶の喪失体験や年齢を重ねる中での体の変化、持病の症状など、あらゆる場面で、自分が気付かぬうちに自分の身体が思いもよらない状態に変化していることがあります。自分は知覚していないのに。それは意識として知覚・認知していることと実際に起こっている現実との差であり、現実を受け入れがたいとき、自分は本当に今ここに生きているんだろうか?私の「私」は一体どこに在るのか?といった思考に私は苛まれてしまうことがありました。

 なぜこういった思考に苛まれてしまうのか長く考え、今までは頭(思考・認知)が優位なものであり、自分自身を形成する本体だと思い込んでいたことに気づきました。身体はあくまで肉体、容れ物に過ぎないと思っていました。しかしこれではいつまでも私は、「思っていたことを超える」現実に対し、驚き反応する自分の身体を責め続けなければならないし、頭と身体に上下関係はなく、考える私もこの身体も私のものであり、私そのものなのだ、と認識を改める必要性を強く感じました。

 頭と体、それぞれの歩調を私の制作に置き換えると、頭は「イメージ」であり、ドローイングやデッサンなどイリュージョン的とも言えるアプローチです。一方、体は「身体」というだけあって、彫刻的な、行為や素材、空間に対するアプローチになります。

 私は今、この「イメージ」と「身体」の往来を密に行いながら制作することで、自分の「生」を捉えられないかと模索しています。頭も体も私であり、美術、造形の中でそれを肯定できたらどれほど生きることや生きている自分の支えになるだろうか、そう切に思って手を動かしています。

 私は私のために祈るように、制作研究を行いますが、これは私だけの特別な体験や事例ではないとも考えています。さまざまな「生きづらさ」とどう向き合い生きていくのか、同じように悩む人たちに対して、またその中の一人である私自身に対して、ひとつの問いと解を探求するために、私の手は、つくるということは、研究という手段を携えている必要があるようにも捉えています。


 

2022年11月13日

笹野井 もも